ウラジミール・カミナー

ウラジミール・カミナーは1967年モスクワ生まれ、1990年からベルリンに移り住み、ドイツ語で執筆活動をしている作家。

 

『ぼく心配だよ、ママ』(原題"Ich mache mir Sorgen, Mama")というエッセイ集が面白い。ドイツ語を母語としないカミナーがドイツの文化や家族生活に関してユーモアたっぷりに語っている。

 そのエッセイ集の最初の作品「初心者のためのドイツ語」。以下翻訳。

 

「初心者のためのドイツ語」

子供たちのもとに招かれることがよくある。朗読の後に、彼らは私に質問する。しかし物語の内容に関してより詳しく知りたいというのではなく、いつも年収はいくらだとかその金をどう使ってるのかとかいったことを聞いてくる。ドイツ語で夢をみるか、ということを質問してくる子もほんの二三人はいる。私とドイツ語をどうにか結び付けようとする、好奇心旺盛な読者諸君もいる。

「なんでドイツ語で書いてるの?」と、彼らは朗読のおりまたは手紙の中で聞いてくる。「モスクワにいたときに学校でドイツ語を勉強したの?あなたの子どももドイツ語が話せるの?ドイツ語の好きなところは?」

私は全力で自己防衛する。「いいや、学校ではなくてここで、必要にかられて勉強したんだ」作家として、ジャーナリストとして、私は大きな読者層に興味があったのだが、翻訳家は信用していなかった。しかもドイツではドイツ語が、たくさん移民がいるのにほとんどの人間が理解しそして読める唯一の言語であり続けている。私は決して言語の達人ではなかった。私にとって言語はただの道具であり、他人との理解の架け橋を築いて私を助けてくれるハンマーである。言語をいかに扱うかというのは、様々だろう。ギターに苦しむギタリストが千差万別であるように。12本の指と鼻を使って演奏する人もいれば、拳を楽器に叩きつける人もいる。しかし本当に何か伝えたいものがあるのなら、2つの和音で聴衆の熱狂をよぶことも可能だ。卑劣な酷評をする音楽批評家でさえも、頭を振ってこう言う。「この2つの和音はもはや時代遅れで価値もないもんだが、この男が弦を叩くとそれは注目すべき音になる。」そんな風に私は、自分のドイツ語を叩く。完璧とは程遠いけれど、人生について考えを巡らせたり、それを紙に書いたりするには十分なくらいのドイツ語を。

私がドイツ語と初めて出会ったのは、701番地にあるソビエトの学校だった。そこでは5年生になると、勉強したい外国語を選ぶことができた。ドイツ語か英語か。みんな英語を選んだ。ドイツ語はナチスの言語だとタブー視されていたのだ。しかし誰かがドイツ語を学ばねばならなかった。我々は計画経済に生きていたのだから。だから勉強しない怠け者とわんぱく者はドイツ語の履修を宣告された。

二人の語学教師は、お昼休みの終わりに食堂にやって来た。英語の先生は、長い爪をしたブロンドに髪を染めた若い女性だった。彼女はしかも深みのある、色っぽい声をしていた。「レイディース エン ジェントゥルメン」と彼女は叫んだ。「もどってちょうだい―教室に!」それは当時の私たちにとってすごくかっこよく聞こえた。それは私たちの預言者の言葉だった。オジー・オズボーン、マンフレッド・マン、キッスの言葉だった。ドイツ語の先生は、べっ甲縁メガネのおばさんだった。白髪をお下げにして、自ら編んだ灰色のニットを着ており、年取った大きなカラスを思わせた。「もどっでぢょうだい、みなざん!ぎょうじづに!」、と彼女は食堂でどなった。「ぎょうじづ」という言葉に、みんな鳥肌をたてた。

ドイツ語に批判的だったのは、生徒だけでなくてロシア古典文学者もだった。レオ・トルストイは、ドイツ語を、はてしなく続く、地平線まで続く鉄道の線路にたとえた。ナボコフはもっとひどくて、ドイツ語は釘を板に打ち付けたように聞こえると主張した。私はよくできる生徒ではなかったが、ドイツ語の授業を受けるまで怠惰ではなかった。だから私は少年時代を"クラスルーム"で過ごした。「デズモンドは市場で手押し車を引いて/ モリ―はバンドで歌うのさ」

1990年にドイツへ出発するとき、これを機会にと母の書棚から露独語ガイドブックを借用してきた。1957年に出版されたこの薄い冊子は、冒頭何行かでその無駄さを証明していた。「ソヴィエト大使館はどこですか?」とか「私はソヴィエト大使と急いで話をしなければならない」、とかいう文句が載っていたのだ。ソヴィエト大使館は私のベルリン観光リストには載っていないし、ソヴィエト大使は私が最も話したくない人物だった。私の英語の知識はその時点ですでに自然に頭から消滅していた。デズモンドは誰で、モリーは何の仕事をしてたんだっけ?だから私はベルリンの街中や居酒屋で、もう一度初めから新しい言語を習得することにした。それから私はフンボルト大学の語学コースに通った。そこですぐにドイツ語のシステムを知った。私の故郷の言語とは異なり、ドイツ語はあらゆる言葉をつなげることができる。名詞を形容詞に結び付けたり、あるいはその逆もできる。名詞から新しい動詞を作ることだってできる。その際まったく新しい、しかしみんなにすぐに理解される言い回しが生まれる。当初私は地下鉄で色々と実験してみた。私の最初の実験台は、車掌だった。彼らはいつも複雑な言葉の組み合わせを楽しんでいる。例えば「あなたの短距離地下鉄運賃は二十分間距離走行後に失効します」といった具合に。

「長距離地下鉄運賃を見つけられなかったもので、もう短距離ろうと思ったんですが、下車機会を残念ながら逃がしてしまいまして」、と私は答えた。

「その機会は何とかしましょう」、と車掌は言った。「一緒に降りて来て下さい。」

一緒に来るのか、降りて来るのか?降りて来るのか、一緒に来るのか?私はこの言語の柔軟さと繊細さに感動した。その後執筆を初めてから、私は全ての物語いやあらゆる本のタイトルに、この言語に新しい色を加えるようないろんな組み合わせの素晴らしい言葉を作った。『ロシアディスコ』は例えばロシア語であればただ『ロシアのディスコ』となるし、『軍楽』なんていうのもロシア語では言い表せない。

そうこうしているうちに私のドイツ語との付き合いは13年になった。そしていまでは、かつて熱狂した英語―私たちの当時の預言者オッジー・オズボーンの言語―は、低地ドイツ語の脱線に過ぎないということを知っている。私のロシア語は、とても生き生きと表現豊かで、ロシア語であればあらゆることをにぴたりとした言葉を見つけることができるけれども、それはこの西においては誰も理解することができない。ドイツ語ではその代わりに、頑張れば文章の末尾で韻を踏むことができる。この言語は、地平線まで続く線路ではない。それはむしろある種のレゴの積木だ。そこから何を組み立てるかは、個人に委ねられている。例えば最近、ドイツ語を知らない私の義母が7歳の我が娘に、「小説家カミナー」と署名された私の写真を見せて、そこに何が書いてあるのか尋ねた。「そんなの簡単よ」、とニコルはいった。「小説家―小説のある家よ。」私の義母はそれを聞いて、その写真をもう一度よく見たが、どこにも家は見つけられなかった。ドイツ語は依然として謎に満ちている。

 

 

注釈)

最後の「小説家―小説のある家よ。」と訳した箇所は、»Schriftsteller- das ist ein Teller mit Schrift.«が原文で、作者の娘がSchriftsteller小説家をSchrift文字 とTeller皿 に解体して説明したところに面白さがあるのだけれど、日本語だとそれが十分に出し切れない。

 

けれど翻訳してわかるのは、単語をある程度自由にくっつけて新しい語を作れるドイツ語と、漢字を組み合わせられる日本語が結構似ているということ。